シュッと風を切る不穏な音でクレインは目を覚ました。 見事に壁に突き刺さった矢を見て、窓の方へ歩み寄るが最早人の気配はない。薄っすらと開いた窓を狙ってきたのだから、スナイパーは余程の腕の持ち主なのだろう。狙撃犯だと思えば身も震える思いである。しかし矢に付けられた小さな紙がそんな思いを払拭させている。 『おはようございます。いよいよ本番です。今日は頑張りましょう』 そう、今は世は平和なご時世なのである。 まだ夢現だったクレインはその内容に一気に現実へ引き戻された。ここは軍の野営地でもなければ、今は戦時中でもない。それなのに言い表しようのない不安が身に渦巻く現状。 クレインは思い溜息とともに、最後の矢文を折り畳んだ。 見事なまでの快晴。 いよいよ親善パーティ当日である。 次々とエトルリアを訪れた各国の代表者達は、視察も兼ねたパレードにて街の人々の歓声を受けていた。 パーシバルやクレイン、その他多数の役者達は当然のように警備等に駆り出されていた。本来の仕事なのだから仕方のない事だが、この後に予定されている舞台本番に緊張している暇さえない。パレードが終わり、友好会談を行なっている間に準備に入らなければならないといった慌しさだった。 ようやく持ち場を離れる事ができたクレインはホールへと走った。パレードが終わってからも雑務があり、随分と遅くなってしまったのだ。 ホール内では既に驚くほどの人が忙しそうに動き回っていた。裏方も含めこれだけの人が参加しているのかとクレインは改めて事の大きさを知った気分だった。 一体どこへ向かったらよいかも分からずに立ち尽くしていると、後方から呼ばれる声に気が付いた。 「クレインお兄様ー、お待ちしておりましたのよ」 結い上げた金髪を揺らしながらクラリーネが走り寄って来た。 「さぁ、早くいたしませんと間に合いませんわ」 ぐいとクラリーネに腕を引かれて中に進んでいくと、クレインは一室に押し込められた。 「時間があまりありませんわ」 用意されていた純白のドレスにクレインはしぶしぶ着替え始めた。夕べから、いや本当はジュリエット役に就いた時から分かっていた筈なのだが、女物のドレスにはやはり抵抗がある。召し変え用はこちらです、と見せられた衣装は薄手の薄紫の生地で作られた何とも色っぽいデザインで、クレインは眩暈すら覚えそうになっていた。 とはいえもう逃げられない所まで来ている以上、クレインは鬘を被せられ、化粧まで施されるのを大人しく耐えていた。 仕上げに装飾品をつけられていると、不意に部屋の扉が叩かれた。入るぞ、という声と共に扉が開く。 鏡の前に座っていたクレインはそこに映るパーシバルの姿を確認した。 びろびろのシャツにスラックスという格好。いつものパーシバルとは明らかに雰囲気が違うものの、女装のクレインに比べれば比較的シンプルと言えた。 「随分ラフな格好なんですね」 「あぁ、色々揉めたがな。準備はまだか?」 パーシバルの言葉にクラリーネがくるりと椅子を回転させた。 「今終わりましたわ。さ、立ってくださいませ」 クラリーネはスカートの皺をせっせと直しながら、お兄様のイメージに合わせてデザインした自信作ですのよ、とクレインをパーシバルの正面に立たせた。 クレインがおそるおそるパーシバルを見上げると、パーシバルはいつもの無表情のまま、だが僅かに息を呑むのを感じた。 「あの・・・何か言って下さい。そんなに変ですか?」 黙っているパーシバルにクレインは恥ずかしそうに俯いた。 胸までの長い金髪を垂らしたクレインはクラリーネとよく似た、しかしもっと大人びた美貌を放っている。 変・・・、というか。 ある意味とても変かもしれない、とパーシバルは思った。 似合いすぎだ、と心中で呟いたが声に出す事はしなかった。 そんなパーシバルの表情を伺いながらクレインは重く溜息をついた。 似合うと言って欲しいわけではない。寧ろそんな事を言われるのは不本意なのだが、それにしたってもっと反応してもらいたい。変なら変で、笑い飛ばされるなり、貶されるなりしてくれた方がまだ気分が楽なのだ。 「そんな表情しなくなっていいじゃないですか・・・」 クレインはポツリと呟くと顔を背けてパーシバルから離れようとした。 「クラリーネ。靴はどうしたら良い?」 「あっ、こちらですわ」 「・・・これで歩けと?」 「なるべく高くないヒールを選んだつもりですわ」 クレインはそっと地面に置かれたヒールに足を通した。両足を収めると予想以上の不安定さを感じる。 「そろそろ行くぞ」 パーシバルはさっさと出口の方へ向かったが、後に続こうとしたクレインはフラリとよろめいた。 「歩けないのか?」 ぐいと二の腕を捕まれてクレインは何とか踏み留まった。 「大丈夫だとは思います・・・」 「将軍。お兄様をお願いしますわね」 クラリーネにあぁと応えるとパーシバルはクレインの腕を取ったまま進み出す。 「・・・ちょっ、一人で歩けます」 「嘘を言うな」 引きずられるように部屋を出て行くクレインに、頑張ってくださいねーとクラリーネは呑気に笑顔で声援を送った。 階段まで差し掛かり二人は立ち止まった。 今のクレインにとって階段は難所となっている。 「平気か?」 「なんとか・・・。立ってるだけならともかく、階段とかは辛いですね」 クレインは注意深く一歩ずつ進んだ。 いっそパーシバルが抱き上げた方が早いのだがクレインはそれを良しとしないだろう。仕方なくパーシバルはそれを見守った。 「すみません。パーシバル様は先に行って下さい」 「構わん」 「でも、きっとセシリア将軍がお待ちかねですよ」 「クレインに怪我でもされたらそれこそセシリアに合わせる顔がない。それに、私だって困る」 妙にキッパリと言うパーシバルにクレインは思わず足を止めた。一体パーシバルが何を困ると言うのか、と僅かに考えてすぐ心当たりに思い当たる。 「随分と舞台の心配をされるんですね」 意味を図りかねてパーシバルの眉間に皺が寄った。 「最初は役など放り出すような事も言ってましたけど、今はやっぱり舞台が大事なんですね」 クレインにしては珍しく棘のある口調を意外に思いながら、パーシバルは不機嫌の原因を探った。 「お前、土壇場で逃げると言った事を反故にしたから怒ってるのか?」 「そういうわけではありません。あれはちゃんと約束したわけでもないですし・・・」 「じゃあ何を怒ってるんだ」 「怒ってなんかいません。パーシバル様が何でそんなにやる気なのか不思議なだけです」 「やる気などない」 「そりゃ、始めはそういう感じを受けましたが、練習だって真面目にやってましたし、僕の自主練にもマメに付き合ってくれましたし。今だって・・・」 クレインが一気に捲くし立てるのを聞きながら、パーシバルはゆっくりと息を吐いた。 「お前は成功しなければ良いと思ってるのか?」 「違います!折角練習したんですから、勿論上手くいった方が良いです」 「ならば、何を苛立っている」 クレインは言葉に詰まったのか、綺麗に紅の引かれた唇をきゅっと噛み締めた。 「・・・僕はあなたの共演者に相応しくありません」 小さく呟かれた声にパーシバルは思わず耳を疑う程だった。 この男は何を苛立っているのかと思えば。 「演技も下手だし衣装だって似合わないし、今日はまともに歩く事だって出来ない。折角のパーシバル様の晴れの舞台ですのに・・・」 続けられる言葉にパーシバルは苛立ちさえ沸いてくるのを感じた。そもそも騎士にとっての晴れの舞台が演劇である筈がないだろう。 「勘違いするな。誰が舞台の心配などしている」 セシリアに聞かれたら大目玉であろうが、本当は今でも演技の善し悪しなどパーシバルにはどうでも良い。ここまで来た以上やるだけはやるつもりだが、結局はド素人の寄せ集めなのだから、どうせなら大失敗して笑いを取る方が余興としては良いのではないかとすら思っているのだ。 だから、クレインの演技が例え下手だろうと何だろうと構いはしない。ただ・・・ 「お前の演技が見たい。それだけだ」 計らずとも昨夜のミルディンのセリフとかぶってしまった事に気付いてパーシバルは内心で舌打ちしたが、クレインはただ不思議そうに目を丸くしていた。 「え・・・えと・・・」 「本気で成功を祈ってるのは寧ろお前の方だろう」 パーシバルはきょとんとして立ち止まっているクレインを引き寄せた。 この男はパーシバルが比較的真面目に稽古をしていたのも、クレインの自主練習に付き合っていたのも、単に演劇好きになったと考でもえていたのだろうか。 自分をここまで付き合わせておきながら、訳の分からない事を言い出すクレインにパーシバルは言い様もない苛立ちといじらしさを感じてしまう。 「相応しくないだと?お前が下手なのは今更で、それは誰より私が知っている」 あまりの言いようだが、それがパーシバルの密やかな心遣いだと感じてクレインは苦笑した。 「そうですね・・・」 「それでも、お前がやりたくないというなら・・・今、連れ去ってやる」 いきなり足元から掬い上げられてクレインは当惑した。 心ではどれだけ願おうとも、本気で舞台から逃げられるなど思ってはいなかったのだ。 「え・・・と・・・」 「ハイハイ。そこまでですわ」 パーシバルが歩こうとした瞬間、絶妙のタイミングでパンパンと手を叩きながら階下からセシリアが現れた。 「そういうのは劇中で存分になさって下さいね。お二人とも早くこちらにいらして下さいませ」 セシリアは何も言えずに固まっている二人にさっと近づくと、クレインを抱き上げたパーシバルの腕をがっしりと掴んだ。 無言で、しかし、逃がしませんわよ、としっかりその微笑が語っていた。 うわぉ、こんな所で一話使っちゃいました。今回も素芝居鑑賞がおいしいセシリア将軍。
次回はいよいよ本番です。 ですが、劇そのものは細かく書いても仕方ないのでさらりと流れ行く予定です。 |
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